2024年に演歌界から待望の紅白初出場を果たし、人気絶頂の新浜レオンさん。
そんな彼は、どのようにして現在の地位に上り詰めたのでしょうか。
テレビに出演されている姿を見ることも多くなったので気になりますよね?
今回は、歌手としてデビューする前のお話や、人気になった秘訣について深堀りしてみようと思います!
新浜レオンの意外な経歴
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新浜レオンさん(1996年生まれ)の幼少期は、音楽と野球の二つの要素が大きな影響を与えていました。
現在でこそ、活躍している新浜レオンさんの経歴について振り返りたいと思います。
野球一筋のデビュー前
今でこそ演歌歌手として、注目を集めている新浜レオンさんですが、以外にもデビューまでは野球に明け暮れていたそうです。
今でこそ演歌歌手として、注目を集めている新浜レオンさんですが、以外にもデビューまでは野球に明け暮れていたそうです。
その実力は、本気でプロ野球を目指すほどで、千葉県の強豪高校に進学。
高校時代は捕手としてキャプテンを務め、県大会ベスト4まで勝ち進むほどの実力を持っていたのです。
最近では、始球式での活躍も話題にあがりましたね。
身長は180cmと体格も良く、キレキレのダンスと、スポ根精神はしっかり芸能にも活かせていますよね。
挫折からの転身:歌手への道
惜しくも甲子園出場を逃し、新浜さんの野球人生は甲子園出場という夢を果たせぬまま終わりを迎えます。
そこから、なぜ演歌歌手を目指すようになったのでしょうか?
そこには、他ならぬお父様と、幼少期の体験が影響しているそうです。
横浜レオンさんのお父様は、なんと演歌歌手の髙城靖雄さん。
伯方の塩のイメージソングでも有名で、実は聞き覚えのある方も多いのでは無いでしょうか?
そんなお父様の影響か、幼少期は「演歌・歌謡曲まみれ」の環境で育ったそうです。
プロ野球の夢が絶たれた後、新浜さんは、父である髙城靖雄さんのカバン持ちを始め、「いつしか父のように歌で人を喜ばせられるようになりたい」と語られています。
しかし、お母様からは、「父のような苦労はさせられない」と、当時は猛反対されていたようです。
歌手の家庭がゆえの苦労も多かったのかも知れませんね。
新浜レオンが紅白歌手になるまで
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野球での挫折や、家族からの反対を押し切り、歌手への道を歩みだした新浜レオンさん。
デビューまで、そして紅白歌手までの道のりはどのようなものだったのでしょうか?
新浜レオンのデビューまでの道のり
大学時代、新浜さんは歌手デビューへの道を着実に歩んでいきます。
3年時には「ミスター大東コンテスト2017」でグランプリを獲得。この経験が、歌手としての自信につながりました。
学業の傍ら、各レーベルにデモテープを持ち込む努力を続け、ついにビーイング(現B ZONE)に認められます。
しかし、入所試験では「体が大きすぎる」と指摘され、新たな試練に直面します。
新浜さんは驚くべき努力を見せ、たった2週間で10kg(デビューまでに計20kg)の減量に成功。
この姿勢と、父親譲りの歌唱力、そして礼儀正しさでスタッフの信頼を勝ち取ったのです。
デビューから紅白出場まで
2019年5月1日、新浜レオンさんは『離さない 離さない』で歌手デビューを果たします。
そしていきなりの、オリコン週間演歌・歌謡シングルチャート第1位を獲得!
さらに第61回日本レコード大賞新人賞も受賞する快挙となりました。
以降も毎年ヒットシングルをリリースし、着実にキャリアを積み重ねていきます。
2022年には5thシングル『捕まえて、今夜。』がアニメ『名探偵コナン 犯人の犯沢さん』のオープニングテーマに抜擢。
特に”窓拭きダンス”がTikTokで1億回再生を突破するなど、若い世代にも知名度が急上昇しました。

そうして迎えた2024年、新浜レオンさんにとって大きな転機の年となります。
3月には木梨憲武プロデュース・所ジョージ作詞作曲の6thシングル『全てあげよう』をリリース。
オリコン演歌・歌謡シングルランキング1位を獲得し、長期にわたってチャートインする大ヒットとなりました。
そして年末、ついに悲願のNHK紅白歌合戦(第75回)への初出場が実現。
新浜さんは「紅白出場」を高校野球の甲子園に等しい”歌い手の甲子園”と位置付けており、この出場は彼にとって大きな夢の実現でした。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、新浜レオンさんの経歴から、紅白出場に至るまでをまとめてみました。
野球にかけた学生時代から、演歌歌手への転向。
そして、幅広い世代からも多くの指示を集めている人間性。
2025年の紅白出場も大いに期待できますね!
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